大堀相馬焼を継承する 「陶吉郎窯」が拓く新たな世界
浪江町の大堀地区は相馬野馬追い祭で有名な相馬藩で育まれた陶芸の里だ。地域に愛されてきた「大堀相馬焼」と呼ばれるその焼きものはしかし、原発事故により何十軒もの窯元が避難を余儀なくされ、存続の危機と直面している。その一方で、大堀相馬焼を継承しようと様々な工夫をしながら奮闘している窯元がある。その一つ「陶吉郎窯」の陶芸家近藤賢さんが、現代工芸美術家協会主催の第61回日本現代工芸美術展で現代工芸理事長賞を受賞した。作品名は「innocent blue(イノセントブルー)」。そこに込められた想いとは。
330年の歴史を紡ぐ大堀相馬焼と近藤家
近藤家と陶芸との関わりは江戸時代に遡る。旗本の家に生まれた近藤平吉が京焼楽焼を修行し江戸で楽焼師となった後、会津藩の磁器焼師範となったことから福島へ。二代目近藤陶吉郎が相馬藩よりお声掛があり、浪江町の大堀に住み、大堀相馬焼の改良と多様化を押し進めたのだという。お話しを伺った近藤賢さんは、職人として以上に、一人の作家として活躍する近藤家の10代目だ。
山が連なり清らかな川が流れ、その流れの先には広々とした太平洋が広がる、美しい自然に囲まれた陶芸の里「大堀」。大堀地区には何十軒もの窯元があり、職人さんたちが大堀相馬焼の器を作り出す工房が多々あった。その窯元の1つ『陶吉郎窯』を営む近藤家に生まれた賢さん。父である近藤学さんが、職人としてだけではなく独自の表現手法を駆使した陶芸家としても活躍している姿を身近で見ながら、物心付いた時には土を捏ねるのも遊びの1つだった。賢さん自身も、小学校の陶芸大会などで作品としての陶器を作る機会を得ながら、高校時代には「陶芸家として『陶吉郎窯』を継ぎ生きていきたい」と思うようになっていた。
「焼きものや店の手伝いもよくやっていましたし、他の産地も見てみたい気持ちも持ちつつ、最終的には実家の窯を継ぎ、陶芸家として生きていこうと思っていましたね。小学校の卒業文集ですでに『陶芸家になりたい』と書いていました」
作り出す喜び、そして作家として一歩を踏み出す
専門的に陶芸のことを学ぼうと、大学は、その当時新しくできた栃木にある芸術大学を選択した。その陶芸科では、基礎的なことを徹底的に学んだ。器だけでなく、オブジェの制作なども経験。
「素材も粘土1つとっても限りなく種類があり、手法も技法も様々なものがあるんです。釉薬は何万種類。1:1:1なのか、1:1:2なのか、など配合によって風合いや色も全く変わってくる。学校では、陶芸ばかりではなく美術に関する様々な学習も出来、今に役立ってますね」
そして大学3年生の時、教授に勧められて現代工芸展や日展に出展し、「入選」という快挙を得た。しかし、表彰式に出るために実際に展示されている会場に行った時、賢さんは衝撃を受ける。新進気鋭の若手としての評価は得たものの、美術館でベテランの芸術家の作品が並ぶ中で、自分の作品が周りに比べて見すぼらしく見え、恥ずかしさに赤くなった顔を上げられなかった。「胸を張れる作品を作れるようになろう」それが1つの励みとなった。
「見られるということを初めて意識した瞬間で、自分にとっては大きな転機でした。技術的にも表現としても胸を張って自信が持てるような作品を作れるようになるんだ、という明確な目標が出来たんです」
大学卒業後、賢さんは益子焼の産地として有名な栃木県益子町にある「益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子」に就職。美術館運営、陶芸教室の指導員などをやりながら、その工房を使って自分の作品作りを始めた。益子は町をあげて陶器の文化振興に力を入れ観光地としての人気もさらに高まり、陶芸家を目指す同年代の若者が各地から集まってきていた。伝統的な益子焼だけではない様々な手法を試しながら、仲間との切磋琢磨の日々は、賢さんにとっても刺激ある時間をもたらしてくれた。この頃、大学の同級生と結婚し、子どもも産まれた。
「innocent blue」体に刻まれた故郷の記憶
さらなる自分の作風を模索していた2009年、“磁器”を使った独自の表現方法にたどり着く。陶器とは違い薄くしなやかに焼きあがる質感が、自分が表現したい世界に合うと感じた。
「自然の情景をイメージしていました。波・風・水そういう動きのあるものを表現したかった。磁器という素材との出会いが、その実現へと導いてくれたんですね。」
自然の情景、波・風・水。それは故郷の風景でもあったかもしれない。子ども時代に遊んだ川の流れ、海から吹いてくる強い風、寄せては返す波の揺れ。感覚に染み込んだそれらの動きが、賢さんの手の中から生み出されていく。重さから軽さ、自然の不均等なバランス、そこに彩られる淡いブルーは、大堀相馬焼のブルーを作り出す釉薬と同じく、鉄を含んだものだった。そのシリーズは「innocent blue(イノセントブルー)」と名付けられた。
自分の作風を確立し、浪江町にUターン
作風を確立した賢さんは、故郷の『陶吉郎窯』へと戻る準備をはじめた。2010年秋に実家に戻っての作陶をスタートし、子どもが小学校にあがるタイミングに合わせ、家族を2011年の春に呼ぶ予定で計画していた。家族での浪江生活を目前にした3月、東日本大震災・原発事故が起きた。様々な困難が押し寄せる中、浪江町も全町避難となり、賢さんは家族がいる栃木に避難。父と母はいわきへと避難した。離散しながらも陶芸を続けられる環境を探し続けた。父である学さんがいわきで焼きものができる工房を見つけたが、大堀で使い続けていた登り窯はもちろん無い。万全とは行かなかったが、賢さんは栃木からいわきへと通いながら、父と共にいわきで、まずは小さな工房を借りて、作陶をはじめたのだそうだ。
「どんな状況だろうと、作品作りは変わりません。自分の思いを乗せて作るのでどこだって作れるはず。大変なこともありましたけど、自分で生み出す、作り出すという気持ちは変わりませんから。震災があろうとなかろうと自分の作りたいものを作る。今できることを一生懸命やる。それだけです」
工房を借りながらも、登り窯を新しく作ることを念頭に入れ、いわきでの拠点を探した。ようやく決まったのは2015年、登り窯を作るにもちょうど良い四倉の海に近い場所に、建物付きの土地が見つかった。新たな登り窯が計画され、家族もいわきに呼び寄せた。そして2018年、いわき市の四倉で大堀相馬焼を継ぐ『陶吉郎窯』が新天地での産声をあげた。
「自分が焼き続けているうちは大堀相馬焼は存続される。まだまだこれからですし、大堀相馬焼の未来もこれからだと思っています。皆さんのおかげでここまでやれた。だからこそ、これからも続けていけたらと思います」
大堀相馬焼を進化させ、探究を続けていく
2023年の現代工芸美術家協会主催の第61回日本現代工芸美術展で、賢さんの作品「innocent blue(イノセントブルー)」が、現代工芸理事長賞を受賞した。その作品は現在、四倉の『陶吉郎窯』で展示され見ることが出来る。店舗では、学さんや賢さんの作品に加え、大堀相馬焼で人気の「青ヒビ・馬の絵・二重焼き」の器はもちろんのこと、歴代近藤家の人々が編み出してきた様々な手法で作られた器、小物やアクセサリーなど、陶器の魅力に触れることが出来るギャラリーともなっている。そして2023年からは、登り窯焼成の公開が始まった。炎をあげる窯の迫力に、その文化を継承してきた近藤家の熱い想いが滲む。
「時代によって求められるものも変わってきます。新しいスタンダードも生み出し、進化させながら、もっともっといいものになるように努力しながら続けていきたいと思っています。」
江戸時代に大堀相馬焼を革新した近藤家の『陶吉郎窯』は、今も大堀相馬焼に進化をもたらし、その土地を離れるという困難を背負ってなお、力強い歩みを続けている。
取材・文:藤城光 写真:鈴木穣蔵 Words:Hikari FUJISHIRO Photography:Jouji SUZUKI
PROFILE
近藤賢(こんどうたかし)さん 陶芸家 大堀相馬焼陶吉郎窯十代目/(社)現代工芸美術家協会 本会員/現代工芸美術家協会東北会 会員/福島県総合美術展 招待審査員
双葉郡浪江町、大堀相馬焼陶吉郎窯に生まれる。文星芸術大学美術学科で陶芸を専攻。大学3年時に、第41回日本現代工芸美術展に初出品し入選。第34回日展に初出品し入選した。文星芸術大学大学院修了後、陶芸メッセ益子勤務。第45回日本現代工芸美術展入選、福島県総合美術展覧会にて福島県美術賞(工芸部門最高賞)、福島県総合美術展覧会福島県美術大賞、日本現代工芸美術展現代工芸本会員賞、第61回日本現代工芸美術展で現代工芸理事長賞など、陶芸界の期待される若手として大きな評価を得、仙台パルコの5周年記念のポスター掲載、LEXUS NEW TAKUMI PROJECT 2017 匠への選定、2019年には、東洋システム株式会社創立30周年記念品制作、福島県立ふたば未来学園に作品を寄贈するなど、活躍の幅を広げている。
東日本大震災による原発事故のため避難を余儀なくされたが、2018年、いわき市四倉町にて登り窯を新設し「陶吉郎窯」を再開し、作品制作を続けている。
大堀相馬焼陶吉郎窯
住所 〒979-0204福島県いわき市四倉町細谷字水俣75-17
営業時間 10:00~18:00
TEL/FAX 0246-38-7855